4月29日 韓国人元BC級戦犯写真展

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1941年日本軍は一気に30万人の連合国軍捕虜を得ました。捕虜になるのは恥ずべきこと(捕虜になる位なら自決しろ)と教えていた日本軍にとっては想定外の事態で捕虜監視にあてる人員が不足していました。そこで急遽植民地であった朝鮮と台湾から捕虜(俘虜)監視員を募集したのです。募集といっても拒否したら配給を止めて一家を餓死させるぞと脅され仕方なく監視員になった人も少なくありませんでした。また差別から逃れられると志願した人もいました。
日本軍は食糧・医療品も不足する中で捕虜を厳しく使役する政策を取り多くの捕虜が死亡しました。
戦後、連合国による戦争裁判で捕虜虐待の罪が問われましたが日本軍の上級将校と共に日常的に捕虜に接していた朝鮮人・台湾人監視員も「BC級戦犯」として訴追され死刑を含む重い罪を負ったのです。
朝鮮人は148人(うち23名が死刑)、台湾人は173名(うち21名が死刑)が戦犯となりました。東京裁判では戦争を計画・遂行したA級戦犯で死刑になったのは板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根、広田弘毅の7人でしたが、通常の戦争犯罪を裁いた各地のBC級戦犯の裁判では組織の末端にいた朝鮮・台湾人に重い処罰が課されました。
当時朝鮮や台湾は植民地などの日本統治下にあったため罪は日本人として負わされました。しかし刑死しても日本からは何の補償もありませんでした。1991年に補償を求める裁判を訴えましたが1999年最高裁で敗訴しました。
罪を償う時は日本人とされ、補償の時には朝鮮・台湾人として対象外とされたのです。

李鶴来(イ・ハンネ)さん
1942年17歳でタイの俘虜収容所へ。
            泰緬鉄道建設のためのオーストラリア・イギリス・オランダ捕虜の収容所で監視業務に従事。
1945年戦犯として訴追され、死刑判決を受ける。
            8ヶ月死刑房で過ごした後に懲役20年に減刑。
1951年シンガポールのチャンギー刑務所から巣鴨刑務所に移送される。
1956年釈放(11年の受刑生活を終える)

李さんの言葉

都合のいい時は「日本人」として使用し、援護や補償は対象外。
それではあまりにも不条理ではありませんか。
特に無念な思いで刑死した仲間は、
いったい誰のために何のために死ななければならなかったのでしょう。
国は裁判所の付言判示を真摯に受け止め、早く立法化してほしい、
早く名誉回復してほしいのです。

李さんが会長をしている同進会では「韓国・朝鮮人元BC級戦犯と遺族に対する立法措置を求める請願署名」を集めています。
賛同して下さった方は署名にご協力お願い致します。
宜しくお願い致します。





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# by riz10212 | 2014-04-29 23:11 | Trackback | Comments(0)