11月3日 外国籍元BC級戦犯・不条理の記憶

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国会包囲は途中で離脱して九段下まで移動し『外国籍元BC級戦犯・不条理の記憶』を見に行きました。
1941年真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した日本は、緒戦の勝利で30万人近い捕虜を得ました。捕虜になるのは恥ずべきことと教えていた日本には想定外のことで、欧米系の連合国軍捕虜の監視に、当時日本が植民地統治をしていた朝鮮および台湾から監視員を募集したのです。
農家で男手がいないと困ると断っても「お前の家には配給を止めるぞ」と脅され家族が飢え死にするのを避けるために捕虜監視員になった人がいます。また差別から逃れるために自ら志願した人もいました。捕虜監視員になってからも日本兵からは階級が下だと殴られる事も度々ありました。
そして、ジュネーブ条約でその処遇が決められていたにもかかわらず日本軍は捕虜を酷使し、多くの捕虜が死亡しました。これを重視した連合国は、戦後、戦争裁判でその罪を厳しく追求。捕虜と日常的に接し、管理していた朝鮮人および台湾人監視員が、その権限の小ささにもかかわらず死刑を含む重い罪に問われたのです。
戦犯になった朝鮮人は148名(うち死刑23名)、台湾人は173名(うち死刑21名)で、その多くは捕虜監視員です。戦争を計画・遂行したA級戦犯を裁いた東京裁判での刑死者は7名ですので、いかに重い刑が末端の朝鮮・台湾人に課されたがわかります。
朝鮮や台湾は当時は日本統治下にあったため、罪は『日本人』として負わされました。しかし、刑死しても日本からは何の補償もありません。1952年サンフランシスコ平和条約発効で、日本国籍を『喪失』した以降も、拘禁されつづけました。しかし、釈放後は『もはや日本人ではない』とされて援護の対象から外されたのです。日本人として刑を受け補償は日本人ではないと受けられないのです。
1991年に裁判に訴え最終的に敗訴しました。そして2008年5月『特別連合国裁判被拘禁者等に対する特別給付金支給法案』が当時の民主党から提出されましたが、審議に入れないまま廃案となってしまいました。2016年日韓議員連盟の国会議員を中心に再度法案がとりまとめられ超党派での法案提出に向けて準備されています。
生存する当事者は最年少で92歳。ごく少数となり、真摯な国会運営で日本の戦争にかかわり長年放置されつづけた人権問題の早急な解決を求めます。

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# by riz10212 | 2017-11-03 22:37 | Trackback | Comments(0)